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【「この人」対談】「豊田の演劇~石黒氏と語る現在豊田演劇史、豊田の演劇のこれから~」ゲスト/石黒秀和氏(劇作家/演出家 とよた演劇協会会長)2019.9特集

TAPポータルサイトでは、毎月1つテーマを設定して、「この人」対談、インタビュー、レポート、コラムなどを集中して掲載していきます。
2019年9月のテーマは「とよたの演劇」。インタビューやコラムなど様々なコンテンツを掲載します。

特集のメインコンテンツは、TAPの先駆事業<TAG>からの継承企画、石黒秀和・清水雅人がとよたの文化芸術に関するキーマンと対談する「この人」です。
様々なお話を伺った模様を動画撮影、基本的にノーカットで公開します。
また、対談を要約した文字コンテンツも掲載します。

今月の「この人」はいつもはホストを務める、劇作家/演出家の石黒秀和氏をゲストに迎え、石黒氏のこれまでの豊田演劇界との関わりと、これからの展望・課題などについてなどのお話を伺いました。
また、冒頭にあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止問題についても議論しています。

文字コンテンツでは掲載しきれないお話もたくさんしています、2時間弱に及ぶ対談ですが、どうぞ動画もご覧ください!

「豊田の演劇~石黒氏と語る現在豊田演劇史、豊田の演劇のこれから~」ゲスト/石黒秀和氏(劇作家/演出家 とよた演劇協会会長)2019.9特集

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※動画はYouTubeにて公開されています。無料で視聴いただけます。

 

対談の要約文字コンテンツ(文責:清水雅人)

2時間弱の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、「この人」対談の文字起こし(要約版)をお送りします。
今月のテーマは「豊田の演劇」。開催中のあいちトリエンナーレのテーマが演劇/パフォーミングアーツであり、TAP MAGAZINEとも連携して、演劇を中心に取り上げてますが、「この人」対談では、いつもは「この人」対談のホストでありつつ、長年豊田の演劇界で中心的な役割を果たしてきた石黒秀和氏をゲストに迎え、豊田の演劇のこれまでとこれからのお話を聞きました。

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止問題と表現の自由について
本題に入る前に、トリエンナーレ開幕直後にニュース等をにぎわせた「表現の不自由展」中止の問題についてそれぞれ意見を述べた。
石黒氏は、自分は演劇に長く関わっており、文化とか芸術という切り口で活動している身としては、はやり今回の中止は残念だなと思っている。表現の自由の問題でもあるし、もっと言えば憲法も絡んでくる問題だが、一方、表現の自由について実はなかなか一般の人に危機感が届きづらいな…と感じたことも確かだ、と語る。
清水は、表現の自由報道の自由は民主国家が保証する自由の中の一丁目一番地と言われているわけだが(その自由がなければ権力がそもそも何をしているかがわからなくなる、不正と指摘することすらできなくなるから)、そういう表現の自由とは何かという議論をスルーして、安心安全の問題だけでお茶を濁してしまっている印象がある。マスメディアも腰が引けていて「中止すべきじゃなかった」「中止もしょうがない」の両論を街角インタビューなどで併記して終わらせていたところが多かったように思う。表現の自由と権力の関わり方は本当は非常にセンシティブな問題であって、例えばこのとよたアートプログラムについても、前身の<TAG>は行政と距離を置いてやろうというのが当初のコンセプトだったくらいで、豊田市の事業となるとよたアートプログラムに継承するのはそれなりの決断だったと思っており、例えばこの動画についてでも行政より「そういうことは言わないで欲しい」という圧力がかかる可能性は常にあるわけで(実際はないですが)、表現の自由とは実は身近な問題でもあり、深い議論はいくらでもできるはずだが、それを避けてしまっているなぁと。某市長の発言、こんなものに補助金は出せないというのは明らかに表現の自由を侵していているのだがそれをノーと言えない、そもそも我々市民が表現の自由とは何かをよく理解してない、表現の自由という言葉は社会の時間に覚えたけれども、それがどういうことなのかという教育も受けてきていないのではということも改めて感じた。
石黒氏は、日本は民主国家であり立憲国家だと、特に戦後は社会もそれを基本に形作られてきたと思っていたけれども、70年以上経っても実は変わってないということが図らずも露呈したなぁと、驚きというか、自分たちは日本が民主国家だと思ってきたし、そうではない国を批判したりしてきたけれど、まだこの国もそこまで成熟してないんだなと感じた、と語る。ただし、表現の自由についてのみで語ってもよくないと思うし、表現の自由だからといってなんでも許されるわけではないのは確かであって、いろんな切り口の議論が必要だと思うし、少なくとも中止にする前にそういう議論、ディスカッションが必要だったと思う。が行政の立場に立てば今回の対応はいたしかたないとも思う…。
(以下もっと話していますが省略します、詳しくは映像をご覧ください)
いずれにせよ、うやむやにして終わらせずに今回のことを機にいろんな場所で、いろんな場面で議論して欲しいし、表現の自由の問題を考えて欲しいと思う。

石黒氏のこれまで① シナリオライター志望~富良野塾
それでは本題に戻って。本コーナーの恒例だが、まずはゲストのこれまでの軌跡を聞いた。
石黒氏は、豊田にて1969年生まれ(筆者と同い年である)、最初はシナリオライターになりたかったとのこと。きっかけで一番影響を受けたのはテレビドラマの「北の国から」だった。ただし、連続ドラマの時ではなく、スペシャルの「北の国から’87初恋」を観てだった。このドラマは「脚本倉本聰」がドーンと出ていて、当時脚本家の名前が大きく出るドラマを見たことがなかったので、倉本聰っていったい何者?と思った記憶がある。それで倉本聰氏のシナリオ集を読んだところ、そこにはセリフだけでなく、演者の動き等を指示するト書きやストーリーまでも綿密に書かれていて、言葉や物語を作り出しているのは脚本家なんだと思った。
それ以前は監督というかアニメーターになりたくて、そのきっかけは宮崎駿が好きで、当時一番好きだったのが「未来少年コナン」だったが、他にも「アルプスの少女ハイジ」や「ルパン三世」など面白いと思うテレビアニメには必ず宮崎駿の名前があり、そして「風の谷のナウシカ」の大ヒットがあった。だから、アニメーターになりたいというより宮崎駿になりたいと思っていた。しかし、宮崎駿になるには絵が描けないといけない、でも自分は絵は描けない…(笑)、なら監督になろう、スピルバーグ映画も好きだったので、映画監督になろうと思っていた。そこで倉本聰との出会いがあった。
倉本聰氏はラジオの世界からテレビの創成期を支えた脚本家で「前略、おふくろ様」など数々のテレビドラマ・映画の脚本を手掛けていたが、いろんなトラブルもあり東京を去って北海道(当初は札幌、そして富良野)を拠点に活動を始める。「北の国から」はそうした経緯から生まれたドラマで、これも大ヒットした。(倉本聰は現在放映中のテレビ朝日系昼帯ドラマ「やすらぎの刻〜道」の脚本も手掛けている)
高校2年生の終わりに「北の国から’87初恋」を観て心酔…後にも先にも心酔と言えるのはこの時だけだと思う。それまで進路は芸術系の大学又は映画の専門学校を考えていたが、倉本聰氏の本を読みまくり、富良野富良野塾という私塾を始めたらしい、そこは授業料もいらない、自給自足で昼間は畑や牧場で働き、夜にシナリオや演劇の勉強を共同生活しながらやっていくというようなことが書いてあって、授業料はなし、倉本聰に直接脚本を学べる、ドラマで観たあのきれいな富良野に行ける、もしかしたら出演者にも会えるかもしれない、もう行くしかない!と思って、でも住所もわからないので、本に書いてあった“富良野から車で30分・・・の富良野塾宛”と封筒に書いて、「富良野塾に入りたい」って手紙を出した(笑)。しばらく返事はなかったが、忘れた頃に返事が来て、入塾試験があるのでそれを受けなさい、と。それで試験を2回受けて合格し、入塾した。
(その辺り面白い話を色々してますが省略します、映像をご覧ください)
富良野塾での生活は、昼間は富良野塾周辺の農家や牧場にアルバイトに行ってお金を稼ぎ、夜に稽古やシナリオの勉強をした。夏場は倉本聰氏の講義は週に1~2回あった。農閑期になると雪に埋もれてしまうので、みんなで貯めたお金で芝居を作った。
富良野塾は2年間で、修了後は多くのシナリオコースの先輩はテレビ局等に入っていた。しかし、石黒氏は別にテレビ局に入りたくて富良野塾に行ったわけではないので、終了後のことはあまり考えてなかった。そんな中先輩でカナダに1年ワーキングホリデーを使って留学していた人がいて、また富良野塾がカナダ・ニューヨーク公演をすることも決まっていて、社会勉強も兼ねて行ってこいと言われ行くとこになった。当時倉本聰氏も、これからは地方と世界を同時に見ていく時代になる、東京だけを目指す時代は終わるというようなことも言っていたと思う。
1年間カナダで生活し、1年が終わるところで富良野塾のカナダ・ニューヨーク公演に同行して裏方のお手伝いをして、一緒に日本に帰ってきた。

石黒氏のこれまで② とよた市民創作劇との関わり
東京に出て来いよと言ってくれる先輩もいて、だた元手がないので、地元でアルバイトしてお金を貯めたら上京しようと思っていた。
ちょうどその頃、とよた市民創作劇というのがあると聞いて、妹と観に行った。それが市民創作劇の1回目だった(1992年)。その時は「豊田でもこういうのやってるんだ~」くらいだった。富良野塾の全国公演の照明スタッフを翌年やることになり、上京するのを保留して地元にいたところ、どうも妹が市民創作劇のアンケートに「うちの兄は富良野塾でシナリオを学んでいて~」みたいなことを書いたようで(笑)、当時の文化協会(現文化振興財団)から連絡があり、市民創作劇のシナリオを公募しているが、なかなか集まらないので、シナリオ書いてみないかと。それで「まあ、いいですよ」と。来年は全国公演に行ってしまうので書くだけならやれるなと。
でも、どうせなら全国公演に行くまででいいので演出もやらないか、出演者も出そろっているので、と言われて、それならと公演は11月だったのでまだ先だったけど、春に2か月くらいで一応芝居を完成させて、富良野塾の全国公演に同行した。それが市民創作劇の第2回で、公演は観ていないが、冬に帰ってきたら評判がよかったと、ついては次もやらないかと誘われ、公演でのお客さんの反応も観てないし、もう少し上京を遅らせてもう1回だけやりましょうとなり、そこからズルズルと…(笑)、もう1年もう1年という感じでずっと豊田にいることになって(笑)。
もともと映像のシナリオライター志望だったわけだが、富良野塾で舞台公演をしていて始めて舞台と出会っていたし、また富良野塾での具体的な講義の1つに、倉本聰氏から“笑い”とか“怒り”というようなテーマが出されて5分程度のシナリオを書き、それを演出して観てもらい、色々指導を仰ぐということもやっていたので、自然に演出も学んでいた。
その頃はもう上京するつもりはなかったのか?の問いに石黒氏は、当時Vシネマ全盛でそのシナリオの仕事や、構成の仕事もちょくちょく入っていて東京に行かなくてもやれなくはないな、市民創作劇で舞台を作り上げていくのも楽しいし、両立してやっていけるかなという思いがあったと思う、やっぱり東京に行かねばとか、地元に腰を据えてとかをどちらかに決めるという感じではなかったと思う、と語る。

石黒氏のこれまで③ 豊田に腰を据えて
とよた市民創作劇は10年を区切りに終了したが(2001年)、石黒氏も市民創作劇に長年関わってきたことで人間関係や悩みの相談を受けることも多くなってしまい、純粋に芝居作りがしたいという想いもあった。その頃には結婚もしたということもあり、上京して…という気持ちはもうなかったと思うが、青少年活動協会にすでに入っていたので、まちづくり、地域振興等にも少しずつ関わってきていて、豊田をフィールドに、芝居だけでなく若い人をいかに楽しませるか盛り上げるか、という視点を持ちつつあったと思う。
その後2003年と2006年にとよた市民野外劇が豊田スタジアムで開催された。
(市民野外劇についても省略します、映像をご覧ください)

とよた市民野外劇の時に“市民”と言いながら裏方で動いているのは市や文化振興財団の職員で、市民の色んな会が参加していたが口は出すが動かない状況で、一体何なんだと、やっぱりみんなで舞台作りをしたい、そのためには人材の育成が必要だと、市民創作劇の時にはそういう視点はなかったが、そういう想いからとよた演劇アカデミーの発想に至った。
演劇アカデミーとは銘打っているが、演劇に限定せずイベントを支える人材、公演をプロデュースできる人材、制作スタッフを育成していきたい、ここで富良野塾での経験も生かして、1年の内の前半は舞台芸術に関するいろんな講師の講義を聞き、後半で芝居を1本作っていくというスタイルで2008年にスタートした(2008年~2017年まで10期続いて終了)。
石黒氏は、それまで市民創作劇も野外劇も依頼があって受けたもので、いわば頼まれ仕事だったが、演劇アカデミーは初めて自分から各方面に相談して、自分から始めたことだったと語る。

豊田の演劇これまでの10年とこれからの10年
やっと本題になるが(笑)、これまでの2010年代~現在までのこれからの10年について聞いた。
とよた演劇アカデミーについては、プロデュ―サー的人材、つまり自分の好きな芝居を作るだけでなく、豊田の文化芸術という視点も持ちながらキーマンになっていく人材は、10年で1人か2人出れば大成功だと思って始めた。演劇アカデミー修了生は10年で200人以上いるが、その中からそういう人材は1人2人よりは多く出てきたと思っている。それが多いと捉えるか少ないと捉えるかは人それぞれだと思うし、また、もう少し技術的な専門性を持った人材の育成も必要だったのではと言われれば確かにそうだとも言わざるを得ないが、1つの目的は達成したと思っている。
また、2017年に設立されたとよた演劇協会についても聞いた。
とよた演劇アカデミーと並行して、T-1演劇バトルを5年やり、それを引き継いでとよた演劇祭も立ち上がった。主に演劇アカデミーの修了生たち、アカデミーから各期の修了生で立ち上げた劇団の活躍の場として作ったものだが、どうして横のつながりが薄くなっていくなと、それと豊田の演劇人材はアカデミー修了生だけではないので、外に開かれた組織も必要だと、そういう観点でゆるやかな横のつながりを持つ、会費も取らず、主催事業をするわけでない組織としてとよた演劇協会を立ち上げた、とのこと。

とよた演劇アカデミーを10年やり(その後とよた演劇ファクトリーが継承中)、その中でT-1演劇バトル~とよた演劇祭が立ち上がり継続していて、また演劇人材のゆるやかな共同体として、及び演劇アカデミー人材以外の人も関われる窓口としてとよた演劇協会を立ち上げた、という10年であり、10年前の狙い以上の成果があったと言っていいと思う。
では、これからの10年を考えた場合、石黒氏は、でもすべてが順調でこの先も大丈夫だとはいえない、と言う。演劇は続けていくことが大変なジャンルでもある。舞台を打つには長い稽古期間が必要だし、制作的な労力もかかる。その中で例えば仕事や結婚などを通して演劇を続けていくのは確かに難しい。この10年で出てきた人材がそれらを乗り越えてキーマンであり続けることができるか決して楽観視はできないと思っているが、具体的な名前は言わないが片手以上のキーマンになっていく人材が現時点でもいると思っているので、頑張っていって欲しい。
一方で、才能がある人が、燃え尽きちゃうとか、疲れちゃって5年くらいで演劇から離れていくのはさみしいし、なんとかならないかという想いは個人的にもある。そういう中で、美術館での群読劇やなるべく少ない稽古で参加できる市民劇等の機会を作れないかと自分としては模索している段階でもある。
そういう流れでいうと、やはり“場”が必要というところに行きつく。小劇場が1つでもあると、爆発的とは言わないまでも、盛り上がりが作られていくと思うし、そこを拠点に活動を続けていける団体、個人が必ず現れてくると思っている。
ホールでなくていい、空間があればいい、キャパ50~100で十分だし、若い人たちが大きなお金がなくても公演が打てる“場”がやっぱり欲しいなと。
今の時代においては、それを行政に作れ作れと言っているだけではなく、民間の我々が場所探しからやっていかなくてはならないとも思っている。立派なものを作る必要はない、お金のかからない、管理のしやすいスペースでいいので作っていく必要があると。
音楽テーマの時にも言ったが、トップクラスの才能を持たなくても、しっかりと人々を楽しませるパフォーマンスができる人材が、食べられないからいう理由で辞めていってしまうのはやはりさみしいし、地方都市で小さなスペースでも生の演奏、生の演劇が気軽に観られて、演者も大金ではなくても続けていくだけの収入を得られてという幸せな循環ができていいと思うし、場は必要だと思う。
石黒氏も、市民の力で場や人を作っていき、行政もそれを支援していくという形を作りあげられるかというのがこれからの課題だと思う、と語る。
そのためには多くの人を楽しませることのできるコンテンツ作りを維持していかなくてはならないし、全国から豊田に芝居を見に来る状況にもなって欲しいと思うし、しかし自分も含めてそこまでの覚悟がまだないのも確かで、そういう覚悟を持った人材がこれから出てきて欲しい、でもそういうことを言えるところにはきている(10年前にそんなことを言ってもただの絵空事だった)、そういうことを考えられるところには来ているとも思う。

演劇とまちづくりについて
演劇・映像・音楽の中で考えると演劇が一番まちづくりというか公共/行政との親和性が強い印象があるが、その辺りについて石黒氏に聞いた。
石黒氏は、我々は芝居を作る時に「観る人を楽しませたい、感動させてたい」という想いで作っているが、それはまちづくりも一緒で、まちに訪れた人やそこで生活する人を楽しませたいという想いが基本だと思う、そういう意味で演劇とまちづくりは似ているし、自分もそういう視点でやってきた、と語る。
確かに、音楽については日本の伝統的な音楽やクラシック等とポップス/ロックで大きな断絶あり、ポップス/ロックはビジネスとして成立してきたということもあって公共との関わりは少なかったと思うし、映画も遅れてきた芸術でビジネスとして観るものであった時代が長ったが最近になって映画によるまちづくりという視点が入ってきた段階と比べると、演劇は遡れば村芝居や地歌舞伎の頃からまち、村、土地と密接にかかわってきた歴史が連綿とあり、西洋演劇が入ってきても伝統的な部分も相当残ってきたと思う。我々のひと世代上の人の中には、演劇は反体制でなくてはならないという人もいると思うが、もちろんそういう側面もあるが、長い歴史から見れば一時期のことなのかなと思う。
石黒氏は、現在豊田では、(合併地区ではあるが)農村舞台や地歌舞伎の活動、交流館単位では芝居や人形劇、朗読劇等のサークルも多数あり、演劇は市民にとっても身近なものになってきているのでは、と語る。
全国で考えれば、平田オリザ氏の存在は大きいのではないか、演劇と国づくり、まちづくり、場づくりを絡めていく、それまでは演劇好きが自分の好きなことをやっているだけという時代から、演劇がまちづくり、人づくりに繋がっていくということを理論づけ、発信していくということを平田氏が始め、我々全国の演劇人も共鳴していくという過程があったと思う。

石黒氏のこれから
最後に石黒氏個人のこれからについても聞いた。
ここでも言ったように、人を楽しませたいと思ってシナリオライターを目指したんであって、まちづくりをしたくて始めたわけではないので、とにかくまず楽しもうということで、とよた演劇部を作った、とのこと。自称40歳以上のおじさんばかり7人で、まずは自分たちが楽しむこと、結果的に作品ができればいいし、できなくてもいいくらいのスタンスで、まさに演劇を楽しむ部活動として始めた。これは仕事や家庭を持ちながら演劇も続けていくという実験の場でもあると思っている。
50代に突入していく中で、活動の終わり方というのも考えるようになってきた。演劇作品を作るには時間がかかるものだし、あと何本作れるのかということを考えると1本1本の重みも出てくる。
やっといろんなところに対してものが言える立場、年代になってきたとも思うし、環境や場を作っていく責任もあると思っている。
まさに、これからの10年がこれまでの活動も含めた真価を問われる10年になると思っている。

(以下公演イベント紹介していますが省略します)
紹介している公演・演劇
第4回とよた演劇祭、ハイブリッドブンカサイⅡ、あいちトリエンナーレ ほか

 
ゲストプロフィール:
石黒秀和(いしぐろひでかず)
脚本家・演出家。豊田市出身。高校卒業後、富良野塾にて倉本聰氏に師事。豊田に帰郷後、豊田市民創作劇場、豊田市民野外劇等の作・演出、とよた演劇アカデミー発起人(現アドバイザー)ほか、多数の事業・演劇作演出を手掛ける。TOCToyota Original Company)代表、とよた演劇協会会長、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長。

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ホストプロフィール:
清水雅人(しみずまさと)
映像作家・プロデュ―サ―。豊田市出身・在住。豊田市役所職員時代に市役所内に映画クラブを結成し、30歳の頃より映画製作を開始。映画製作団体M.I.F.設立、小坂本町一丁目映画祭主宰。2013年市役所を退職、独立し、映像制作、イベント企画、豊田ご当地アイドルStar☆T(スタート)プロデュースなどを手掛ける。豊田星プロ代表。映画「星めぐりの町」を実現する会会長、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員。

豊田ご当地アイドルStar☆Tオフィシャルサイト

森かん奈(もりかんな)

今年6月~11月まで月刊発行中のフリーペーパーTAP MAGAZENE編集スタッフ。9月号では「みんなで巡る、トリエンナーレ」を構成。

関連動画 ※TAPの先駆事業<TAG>時代の対談映像です
「豊田の演劇 歴史と展望」(ゲスト岡田隆弘氏)

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<TAG>Toyota Art Gene:【コラム】<TAG>通信[映像版]第1回「豊田の演劇 歴史と展望/ゲスト岡田隆弘氏」要約と所感 清水雅人

 

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