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【「この人」対談】「豊田のラジオと音楽~エフエムとよたからの目線で~」(ゲスト小笠原禎志氏、奥村聡介氏 (エフエムとよたプロデュ―サ―/ディレクターレクター)2019.7特集

TAPポータルサイトでは、毎月1つテーマを設定して、「この人」対談、インタビュー、レポート、コラムなどを集中して掲載していきます。
2019年7月のテーマは「とよたの音楽」。インタビューやコラムなど様々なコンテンツを掲載します。

特集のメインコンテンツは、TAPの先駆事業<TAG>からの継承企画、石黒秀和・清水雅人がとよたの文化芸術に関するキーマンと対談する「この人」です。
様々なお話を伺った模様を動画撮影、基本的にノーカットで公開します。
また、対談を要約した文字コンテンツも掲載します。

今月の「この人」はエフエムとよた ラジオラブィートのプロデュ―サ―/ディレクターの小笠原禎志氏、奥村聡介氏をお迎え、2000年代以降の音楽シーンの変遷やコミュニティFMについて、豊田の音楽シーンのこれからについてなどのお話を伺いました。
文字コンテンツでは掲載しきれないお話もたくさんしています、1時間20分に及ぶ対談ですが、どうぞ動画も見てみてください!

「豊田のラジオと音楽~エフエムとよたからの目線で~」(ゲスト小笠原禎志氏、奥村聡介氏 (エフエムとよたプロデュ―サ―/ディレクターレクター)2019.7特集

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※動画はYouTubeにて公開されています。無料で視聴いただけます。

 

対談の要約文字コンテンツ(文責:清水雅人)

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、「この人」対談の文字起こし(要約版)をお送りします。
今月の特集テーマは「音楽」。TAP MAGAZINEとも連携して、TURTLE ISLANDの永山氏インタビューや豊田ライブハウス紹介等をしていますが、「この人」対談では、エフエムとよたのプロデュ―サ―/ディレクターの小笠原氏、奥村氏のおふたりをゲストに迎えもう少し俯瞰的な目線で、全国のポップス音楽業界の流れ、豊田の音楽界隈の流れについてを中心にお話を聞きました。

エフエムとよたの歴史~おふたりのこれまで
エフエムとよたはコミュニティFM局で、2001年1月1日に開局した。ケーブルテレビ局ひまわりネットワークのバックアップ的メディア、災害時にも情報発信ができるメディア(ケーブルテレビはケーブルが切れたりテレビも停電すると見られないが、ラジオは電波受信しれば、ラジオ・携帯電話で聞ける)として立ち上がったのがそもそも。
全国的にみると、1991年にコミュニティFMの免許制度が始まり、東海地区で最初のコミュニティFM局ができたのが1993年。1995年に阪神大震災が起き全国的にもコミュニティFMの存在が注目され、開局数が増えた。皮肉だが災害が起こるたびに全国でコミュニティFM局が増えてきたという経緯がある。現在全国で320局程度のコミュニティFM局がある。

「この人」対談では、まずはゲストの人となりを伺うということで、おふたりがエフエムとよたプロデュ―サ―/ディレクターに至るまでの経緯を聞いた。
小笠原氏は、豊川出身。学生時代よりラジオが好きで、特に学生時代に名古屋で世界デザイン博がありその中で開局していたFM DEPO(期間限定のイベント放送局)がとってもかっこよく興味を持った。その後ZIPFMが開局し、自分もFMラジオにかかわりたいと思うようになった。最初は地元のエフエム豊橋に入局、その後名古屋にてFM愛知、ZIPFM、RADIOiなどにて制作を経験し、2011年よりエフエムとよたに入局した。
奥村氏は、名古屋出身で在住歴が長いのは瀬戸市。学生時代放送研究会に在籍していたが繋がりのあった中京大学放送研究会がエフエムとよたで番組をやっていて、そこにふらっと遊びに行ったのがエフエムとよたとの関わりの始まり。ラジオを聞くのは好きだったが、放送研究会もたまたま入った程度だった。しかし就活に失敗して、エフエムとよたでアルバイトをはじめそのまま社員になった。アルバイトでエフエムとよたに入ってから約10年ほどになる。
全国にたくさんのコミュニティFM局があるが、規模や形態も様々で、各局のキャラクターも幅が広い印象がある。コミュニティFM局はこういうものだというイメージはない中で、エフエムとよたは地域密着な庶民的な局、とても親しみやすい局だと感じている。

2000年代~の音楽シーン/音楽の聴き方について
本題に入る前に少しおさらいをしておく。本コーナーの前企画<TAG>通信にて、昭和40年代以降の豊田のポップス音楽史をプレイヤー/音響スタッフを長年やってこられた正木隆氏をお招きして聞いた。昭和40年代からアマチュアバンド、フォークシンガーなどが現れ、豊田でもバンドコンテストやライブが開催されるようになり、その後のバンドブーム、マスコミ主導の大型音楽フェス開催等があったが、2000年前後を境にして、でも結局何も残らなかったという状態になった。しかし、そこから例えばTURTLE ISLANDは地道に音楽の場作りを試行錯誤しながら作り上げ、トヨタロックフェスティバルや豊田でも身近に音楽を楽しめる状況が整いつつあるのが2000年以降の約20年だと語っていただいた。
全国的な音楽シーンで言えば、20年前はバンバンにCDが売れていた時代、ミリオンヒットダブルミリオンヒットがたくさんある時代だったが、そこから現在はCDが全く売れない時代だと言われている。エフエムとよたも間もなく開局20年ということで、この20年の音楽シーンの流れについて聞いた。
小笠原氏は、確かに2000年前後が1つの分水嶺だったというのは自分もその通りだと思う、と語る。よく言われるのは音楽をCDで聴く時代からデータ、ダウンロード等で聴く時代になったと言われるが、携帯の着うたが始まり、携帯会社とFM局がコラボし始めたのが2002年~2003年の頃だった。当時まだレコード会社の営業先はラジオ局で、どれだけラジオで曲をかけてもらうかが営業成績になっている時代だった。そんな中でレコード会社/ラジオ局/携帯会社がタッグを組んだ着うたが急激に広がっていく。今思えば、CDからデータに移行する大きな節目だったと思う、とのこと。
着うたは2016年に終了したが、音楽をデータで聴くという形態は定着した。現在の若い世代にとっては音楽はスマホで聴くものとなっている。さらに、1曲1曲をダウンロードする形から、YouTubeサブスクリプションサービス(月額等の支払いで数万曲が自由に聞けるシステム)などが主流になりつつあり、1曲ずつシングル/アルバム単位でお金を支払うものですらなくなってきている。
逆に高年齢層はカセットやレコードを改めて聴くようになっていたり、例えばタワーレコードの売り場でも現在はアイドルやアニメソングなどが大きなコーナーになっていて、このような状況は以前には考えられなかった。嗜好の多様化が進んだ、国民的ヒット曲が生まれなくなったとよく言われるが、高度成長期以降の家庭での個室化、町の郊外化や地域社会の崩壊、インターネット・携帯電話の普及などなど社会的な流れを振り返ってみれば、音楽の聴き方が現在のように変わってきたのも当然の流れだったと感じる。

2000年代~のコンサート、ライブシーン
一方もう1つの音楽を楽しむ大きな要素であるコンサート/ライブシーンの状況はどうだったのか。
小笠原氏は、ここでも多様化、二極化が進んできた20年だったと思う、と語る。昔は行きたいミュージシャン、グループのライブツアーが近くに来れば行く(このあたりなら名古屋に行く)から、好きなミュージシャンのライブなら全国どこへでも行くという人が増えたように思う。高速バスの低料金化も含め交通手段が発達したこともあるが、広く色んな人のライブに行くのではなく好きなグループにとことん着いていく、フェスが好きな人は全国のフェスに行く、というのが主流になってきているのではないか。また逆に、B級グルメ/ご当地グルメではないが、そこに行かないと聴けないグループを求める、ご当地アイドルなんてまさにそうだと思うが、TURTLE ISLANDも地元でやることにこだわり、それが徐々に外で評価されてきてその評価が中に返ってくるという典型事例だったと思う。

ここでどうしても聞きたかったことが。エフエムとよたは開局当時まだ地元で活動していたHOME MADE 家族のMICROさんが番組を持っていた。当時名古屋にはヒップホップシーンが確かに存在した。当時を知る小笠原氏によると、、、。
シーモネーターさん(現SEAMO)等を中心にした一派があり、プロデュースチームがあり、ソニーミュージックが絡んで全国に名前が知られていったという流れがあったと思う。当時の拠点はOZONというクラブだった。そこからnobodyknows+HOME MADE 家族SEAMOなどがメジャーデビューしていった。
デビューするならまずは東京に行ってという時代から、地元で活動しながらメジャーレーベルと契約し、名古屋を拠点にしながら全国でも活動する、メジャーになっていくというはしりだったと思う。

豊田~地方都市での音楽状況
エフエムとよたでも2年ほど前から、地元アーティストを起用した番組を積極的に制作している。現在は奥村氏が立ち上げた「4LIVE」という番組で4組の名古屋/三河の地元アーティストが月~木日替わりでパーソナリティをしている。エフエムとよたとしてもこれから大きくなっていくアーティストをサポートしていきたいと思っている。
石黒氏が、そういう地元のアーティストは食べれているのか?と聞くと奥村氏は、それは人それぞれ、食べれている人もいれば、いない人もいる、という状況ではないかと答える。
確かに昔は、音楽を仕事にするには、オーディションやコンテストを受け、メジャーレコード会社と契約し、事務所に入って、、、という道しかなかったが、現在では、トラックメイカーとして配信による収入を得たり、他の仕事をしながらでも昔ほど支出なく音楽制作ができるという環境もあり、食べれるか食べられないかの境目もあいまいになってきているのではないかと思う。

そういう意味で言っても、音楽制作の敷居は低くなった、作る人の分母は増えたと思う。そこから全国区のメジャーアーティストになっていく人はわずかなのは昔と変わらないが、その下の層、それなりの良質な音楽が作れる、メジャー契約/全国区にまではいかないが地元の、ライブに来てくれた人の、そういう小さな場所においてちゃんと心に届く音楽をパフォーマンスできるアーティスト、そういう層のアーティストが音楽を続けられる環境を作れるかという大事な時期じゃないか、今豊田もそういう時期なんじゃないかと思っている。
以前はそういう層の人たちは地元では音楽で食べていけないので東京に向かうか、続けられずに辞めてしまっていた。しかし、地元でバンドをしているのは趣味でやっている人で、たまに知り合いを集めてライブをやっているだけ、、、という時代は終わりつつあり、地方都市でも良質なライブパフォーマンスが聴ける環境が整いつつあるのだと思う。

CDは売れなくなったが、全国的にもライブ動員数は増加していると聞く。豊田にも長年ライブハウスがない状況が続いていたが、TAP MAGAZINE7月号及び本サイトでも豊田市内でライブが聴ける場所をたくさん紹介できるようになってきている。
小笠原氏は、いわゆるライブハウス(ライブ公演をメインとした会場)はなくても、飲食をしながらライブが聴ける、中心市街地の公共スペースで音楽が聴けるという形が“豊田スタイル”として定着していくという可能性もあるのでは、と語る。

また、豊田ご当地アイドルStar☆Tのプロデュースもしている清水と、エフエムとよたにてStar☆Tの番組を担当する奥村氏はStar☆Tを通して豊田の音楽シーンを作っていきたいと思っている当人でもある。奥村氏は、ご当地アイドルとして地元を拠点にしつつ音楽的な成長も見せてくれるStar☆Tを長年傍で見てきて、Star☆Tは1つの風穴をあけてきた存在だと思う、と語る。
(Star☆Tについて色々話してますが割愛します、映像でご確認ください)

橋の下世界音楽祭やトヨタロックフェスティバルは全国的にも有名なイベントになったし、飲食店を中心に音楽を聴ける環境が整いつつあるが、そこで地元のミュージシャンがどれだけ活躍できているか、、、というとまだまだだと言わざるを得ない。Star☆Tはデビュー当時より楽曲制作を地元アーティストにお願いしているのも、活躍できる地元ミュージシャンを増やしていきたいという想いからだ。

石黒氏は聞く、そういう地元ミュージシャンが活躍するには、はっきり言えばそういう人が食べていけるにはどうしたらいいのか、と。
小笠原氏は、やはり、地元の理解度、音楽をはじめ芸術に対する意識を高めていく、クオリティの高いものを作り出すにはどうしても手間とお金もかかるという理解を深めていくことも自分たちの役割だと思う、と語る。まだ豊田ではイベントをやる時に安くやろう、なるべく安く済ませたいという意識があるように思う、しかし、来場者を楽しませるコンテンツ、パフォーマンスにはそれなりにお金はかかるし、安くやろうとした結果がお客さんを楽しませられないイベント、どこも似たようなイベントなってしまっている状況もあると思うとのこと。面白いものを作り出すのは人であり、そういう人材を育てるには手間と時間がかかるという認識をみなさんに持ってもらはないといけない。
確かにそういうところはニワトリとタマゴで、安いから育たない、育たないから安いままでいい、、、となってしまっているところもあると思う。そういう意識を変えていくこと、どうやったら変わっていくのか考えることがとても重要だと思う。

身近に音楽がある、生演奏ライブが日常的に市内のどこかで聴けることは、やっぱり人々の気持ちを豊かにするし、癒しも興奮も生み出す力があると思う。そういう環境が豊田という地方都市に当然のようにあっていいし、できつつある環境を続けて行くにはそれなりの努力、みなさんの理解が必要だと思う。

小笠原氏はさらに、実はコミュニティFM局も同じで、当初は地上波ラジオ局のように広告収入での運営を目指したこともあったが、地方都市においてはそれはなかなか難しいということに気づいてきた歴史でもある。高いクオリティの放送、コンテンツ、イベントを提供しその対価をいただくという考え方に変わってきている、と語る。
今やエフエムとよたの放送はスマホアプリで全世界で聴けるようになっている。そうなった当初、局内でも、それならもっとグローバルな情報を流さないといけないのでは、という話も出たが、それは違う、世界で聴けるからこそ地元の情報に特化すべきなんだ、と話したことがあった。

エフエムとよたのこれから
最後にエフエムとよたのこれからについて聞いた。
小笠原氏は、最初に言った通り自分はラジオが好きでラジオを仕事にして、ずっと携わってきた。だからこそあえてこれからは、ラジオを捨てないといけないと思っている。今や、YouTubeや配信アプリ全盛で、その中でいかに面白いコンテンツを提供できるかという点ではラジオも配信も関係ない。うちの子供がよくYouTubeを見ていて、何が面白いの?と聞くと、ホンネを言ってるから、と答えた。確かにじゃあラジオはどうかと言われれば、たくさんのフィルターがかかってしまっているなぁと。この曲を売りたいから、とか、そういう思惑が透けて見えてしまっているラジオ局も多いなぁと。でも、そういうフィルターをぶっこわそうとしているラジオ局も関東や関西で現れはじめている。エフエムとよたも、いかにフィルターを外した、ホンネを語る放送、コンテンツを提供できるかだと思っている、と語る。

この対談で、音楽づくりとライブ、ラジオでのコンテンツ作りと放送の共通性を改めて感じ、豊田という地方都市で“面白いもの”を作り発信していくことの意義を改めて確認した。豊田の音楽シーンとエフエムとよたのこれからに大いなる期待を寄せたい。

 

ゲストプロフィール:

小笠原禎志(おがさわら ただし)

エフエムとよた株式会社 営業局 局長。1973年生まれ。愛知県豊川市出身。

中学生のころ深夜ラジオ番組の魅力にハマり、ラジオディレクターへの道を志す。

大学卒業後、大手カラオケメーカーに入社するもラジオディレクターへの憧れが捨てられず、地元(豊橋市)のコミュニティFMに転職。その後、名古屋の番組制作会社に在籍しRADIO-i、FM AICHI、ZIP-FMや在京FM局等で番組ディレクターを務める。

2008年よりラジオ・ラブィート(エフエムとよた㈱)に移り、編成・技術グループで番組編成を担当するほかディレクターとして音楽番組や情報番組等を制作。

現在は、営業局に所属し地域イベントや企業広告等の企画に携わるとともに、インタビュー番組等の制作に従事している。

奥村聡介(おくむら そうすけ)

エフエムとよた株式会社 ラジオディレクター。1985年生まれ。

大学在学時、エフエムとよたで放送していた学生番組に参加し、パーソナリティを務めたことが縁で、卒業後スタッフとして入社。

入社後は、サッカーの実況中継番組や、バラエティ番組、アニメ・声優の情報番組、アイドル番組など、様々な番組の制作を担当。現在は、豊田・みよしの音楽シーンを盛り上げようと、地元アーティストによる音楽プログラム「ラブィートアーティストプレイス 4LIVE」を立ち上げ、番組とイベントを連動させたコンテンツのプロデュースも行っている。

RADIO LOVEAT 78.6MHz

ホストプロフィール:
石黒秀和(いしぐろひでかず)
脚本家・演出家。豊田市出身。高校卒業後、富良野塾にて倉本聰氏に師事。豊田に帰郷後、豊田市民創作劇場、豊田市民野外劇等の作・演出、とよた演劇アカデミー発起人(現アドバイザー)ほか、多数の事業・演劇作演出を手掛ける。TOCToyota Original Company)代表、とよた演劇協会会長、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長。

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清水雅人(しみずまさと)
映像作家・プロデュ―サ―。豊田市出身・在住。豊田市役所職員時代に市役所内に映画クラブを結成し、30歳の頃より映画製作を開始。映画製作団体M.I.F.設立、小坂本町一丁目映画祭主宰。2013年市役所を退職、独立し、映像制作、イベント企画、豊田ご当地アイドルStar☆T(スタート)プロデュースなどを手掛ける。豊田星プロ代表。映画「星めぐりの町」を実現する会会長、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員。

豊田ご当地アイドルStar☆Tオフィシャルサイト


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「豊田は本当に音楽不毛の地なのか」(ゲスト正木隆氏)

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<TAG>Toyota Art Gene:【コラム】<TAG>通信[映像版]第2回「豊田は本当に音楽不毛の地なのか/ゲスト正木隆氏」要約と所感 清水雅人

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